昭和52年10月06日 朝の御理解



 御神訓 一、「真心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ。」

 真心の道というのを信ずる心と書かずに、真心と書いてありますね。真心の道真心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよと。御道の信心は真心真と言う事を力説いたします。真心一つで助かるとも、おかげ頂くとも言われております。ですからこの真心を追求すると言う事は、金光様の信心を愈々深めると言う事になります。よく真心を取り違えたり間違ったり致します。問題は助かると言う事にだから直結する。おかげを受けると言う事に繋がる程しのものでなからなければ、だから真心とは言えないと思う。
 昨日一昨日でしたか、竹中工務店が今度の記念祭に奉賛したいと言うので、アドバルーンを揚げたい。大体竹中工務店というのは、非常に固い会社ですから、そういう派手な事はなかなかしないんだそうですね。けどもまあ合楽教会のためにその奉賛したい。それでそれだけの金額をお供えさせて頂きたいんですけれども、いわゆる会社ですから領収書がいるというわけなんです。アドバルーンを一本揚げるのが五万円かかるわけでしょう。だからその奉る、竹中工務店と書いて裏には五万円とちゃんと書いてある。
 「そんな事でいいでしょうか」と「そりゃいいですよ」と。領収書を書いたら真心が無くなると言う事もなかっじゃから、そら書かんなら向こうも困りなさるか分からん。書きますよと言うて、ま書いて渡させて頂いたんですけれどね。もういつでしたか、私テレビを見よったら、高田こういんさんが、というお坊さんがおられます。大変まあ有名人というですかね。お話の上手なお坊さんで、また金儲けにかけては、もう実にそん見事な金儲けの上手な人です。
 何か自分がこう書いてやったのを、何千円かでこういわば、売られるわけですよね。でそしてとうとうあの薬師寺ですか、あのお寺をやっぱ建立されましたからね。お話も上手ですそれがそのテレビ局で、何時もテレビに出てから、まあ出演料ですかを、あの渡す時に領収書を書いてくれと、テレビ局のほうで言うたと。所がね「私は宗教家だよ」とね。いうならば商品じゃないよと、だから領収書は書かないよというて、金をもらわずに帰ったと言う事が、いかにもこれが本当の宗教家のように、人が思いまた。
 自分もそれを思っておると言う所に、成程助からん事になって来たんだなと思うんです。もう金光様のご信心は、どこまでも人が助かることなんですから。私は思うですそら竹中工務店が、ほんならうちは金光様に五万円寄付したと言うて宣伝するわけでもないでしょうし、会社だからそういってるのである。問題は竹中工務店が5万円位のことじゃない、本当におかげを受けなきゃならない。折角お供えしたのですからね。だからこの信心とか、真心とかと言う事が、その取り違えられておるね。
 成程御道の信心は、寄進勧化と言う様な事は致しもしませんし、また誰が幾らお供えするとも分かりません。またお供えの多い少ないで、良かれがどうのと言う事もない、真心さえあればとこう仰る。それで、お初穂には名前も書かないと言う様なのが、まあ昔はそうでしたけれど。ここの場合名前を書かなかったら、私はこれだけ沢山の人の名前を、いちいち覚えられんから、ここでは名前を書くわけです。名前を書けばやはりあんまり、お少分な事でもいかんから、やっぱつういっぱいの事をする。
 つういっぱいの事をするから、またつういっぱいのおかげを受けると言うのが、これは私のお取次ぎさしてもらうものの精神なんです、これは私のね。お寺さん辺りでは参りますと、さあお香料式米何両どこどこの何々さん。十万円どこどこの何々さん。百万円にもなるともう紙が違う大きな大きなこう書いて、百万円何々さんとこう書く。そう言う事をしながらですね、今言うこういんさんのような考え方が、いかにも宗教家これが宗教だといったような、誤った考え方がね間違い。
 この頃知恩院のまあだ、五十何名しか知恩院が始まって、そういう人はいないという、まあ京都の方かなんかで、若い青年の青年層が、その修行に取り組んでおる。百日間の修行をしなければならない。水行断食は勿論の事、朝の三時何ぼから起きて、その比叡山の山々を峰から峰へと、一日渡り歩いて修行をする。でそれを本当にやり抜いたものが知恩院始まって、まだ僅かしかないとこう言う。そういう修行を、まやり抜いておる坊さんが出ておられました、テレビで。皆さんもご覧になったかも知れません。しかしそれが何の価値があるだろうかと私は思うんです。
 それは自分を試すとか自分の辛抱力を作るとかと言う事には、でしょうけれどもそれが人の助かると言う事には、係わりはないと言う事。またそう言う事をしたからと言うて、もう瞑想知識だと言う様な事であってもならないとこう思う。金光様のご信心最近の合楽理念からすると、もうそれこそもうそれは邪道だとね。表行なんかはもう本当のこっじゃないもう心行一つだ。自分自身が助かると言う事にはやはり心行より以外にはない。又それは人の助かる事の手立てにもなるんだと言うのが、れは私の考え方。
 ですからそういう意味合いでもですね。先日からあのあれはよんすと、あ何とかダムち言うた、何とかダモスというですねのあの予言をした、その予言に対する所が、四百年か経ちまして、それを的確に予言した通りの事が、実際にこの地球上に起こっておる。本当に危機迫る思いがすると。いうならばその予言をしておる事が、的確に当たるというのじゃなくて、そういう予言をして人間を救う地球上の人間を、本当に助けようと言うのが、いわば予言なんかをする人は、天地間の一つのまあ霊感の様なものをね。
 一つのインスピレーションでしょう、様なものが働いて予言が出来るのですね。教祖様もやっぱりそういう同じ意味の事を仰っておられます。今は知恵の世でという御教えがございますよね。ですからその皆さんがここで、色々悪いお知らせを頂かれます。言うなら神様が予言をなさっておられるわけです。ですからこう言う事がお前の運命の上には、こう言う事になっているんだぞと仰られたら、それを覆すだけの信心によって助かってくれよと言うのが、神の願いなんです。
 何百年先にはこういう事が起こる。何百年先にはこういう今の様な生き方では、地球はもう破滅だぞと教えられるのですから。その地球が清められそして、地球上に住む人間の心掛けが変わってくれば、それをよけられるまたよける事のために、予言は私はあるんだとこう思うんですね。その方がそのノース何ち、何ちノーストあノストラダムスでしょうが。ノストラダムスじゃね。だからその予言がもう本当に、刻々地球上に現れておる事実を、色んな実証をしながら書いておられる。
 そしてこれを救い得る者は、現代のキリスト教でも仏教でも駄目だと書いておる。だからそれを救い助け得る者はです、いわゆるもう誰にでも分かる、助かりの理念というものが出来なきゃならないと言っておる。そこに合楽では合楽理念、助かりの理念と言う事がいわゆる盛んに言われておるわけです。しかもいわゆるそれを自分のものにするというなら、その何千百巻の、お経文を読まんとならんとばね。
 聖書の研究をしなければならないと言ったようなものではなくて、しかも、本当の助かりの理念だなと、いうならば、善意に、ね。または真面目に聞いて下さったり、読んで下さったりしたら、合楽理念はこれこそ、確かに助かりの理念だと言う事が分かるように説いてあるね。合楽がもう自分の良かこつばっかり言う。合楽かぶればっかり言うという見方でしては、合楽理念は分からんです。
 本当に助かりたいという、真面目な心と素直な心、善意を持って読ませて頂くならば、なるほど、私が探し求めておった助かりの道は、これだと言う事が分かるんです。遠い通り道をしなくても、回り道をしなくても、もう助かりの芯なんだね。その本を書いておる人が、本当にそういう誰にでも分かる、いわゆる普遍性に富んでおらなければならないね。どこの国には向かぬ、と言った様なものではない。
 どこの国でもどこの人にでも、それが浸透していくだけの、また頭が良うなからにゃ分からんというものだはなくて、話を聞けば一通り読めば誰でも、それを行ずれば分かる助かりの上に、直ぐ繋がる理念であると言う事なんですね。昨日は壮年部会でしたから、色々お話が出ました後に、いつもお祝詞を、西岡先生が作成いたしますから、私が芯になるところだけを、ずっとこう口伝にこう言う事を書かなきゃいけん、と言うのを書いたものを直し、直ししてから祝詞が作成されます。
 最近ではおかげを頂いて、もう誰にはばかること無しに、合楽独特の表現と言葉を使いながら、お祝詞を奏上さしてもらいますね。皆さんがお聞きになっとる通りです。で今度の十年の記念祭と言うのは、西岡先生どうでも十日前に作らなければいけないよと。そして合楽ここ十年間の信心の歩みというものが、そのお祝詞の中にずっと書き込んでいかなきゃいけないよと。
 そしてどう言う様な事だったかねと言うて、昨日また改めてみんな、昨日は高橋さんたちも見えておりましたから、秋永先生三、四人で、ずっと高い塔に書きましたあれを、あの控えていました。一番初めに、限りなく美しゅうなりましょうというのが一番でしたね。次には豊かに大きくというのでしたね。次には何でしたかね、和賀心時代を作るでしたかね。これはその次ですね。そして合楽示現活動に参画するでしたよね。そうして現在合楽理念の確立と言う事。
 これは私はずうっとその、書いてもらいながら、もう本当に合楽理念が出来る事の為の、一つのその芯というものがずうっと通っているとに、ある意味で驚きました。成程神様の知恵でお互いの信心というものがね、進められてきたんだと。もうとにかく限りなく美しゅうなりましょうやと、合楽の人達がもう合言葉のように言うた。もう必ず問題というものは汚い、我情我欲があるから問題が起こっておるのである。
 だから限りなく美しゅうなりましょうや、と言うたらもう問題はその場で無くなるのです。と言うのが二年間ぐらい続きましたでしょうかね。そしてその事が限りなく美しゅうなっただけではない、その美しい心が愈々豊かに育たなければならない。大きくならなければいけない。言うなら大きな信心を目指させて貰うしかも豊かな。それがまた二年ぐらい続いたでしょうね。そしていわゆる和賀心時代を作るですね。そういう麗しい心同時にしかも、豊かで大きいという心が、自分の信心の信条になってきてね。
 こなければですね。これはいかに声を大にして、なら和賀心時代を作ろう作ろうと言うたってです、出来る事じゃない。それを自分の心の中に自分の家庭に、自分の周辺に広げていこうと言うのが、和賀心時代を作る。丁度それは五年祭のときでしたから、和賀心時代を作るという、私がお話をしたご本が出ましたよね。そして合楽示現活動に参画するね。合楽と言う事がただ合楽の地名を現したものではない。
 合楽とは本当に神様と私共が拝みあい、そこから交流し合うて、そこから生み出されるものと言うのが、いわゆる善導寺から勿体島、椛目、常持とそして合楽という、いうなら非常に深遠な意味があるのであって、金光教のもう特異性と言うか、独壇場というかね。神も助かり氏子も立ち行くという、その両方が助かりあうというだけではなくて、その両方のものが交流し合うて、生み出されてくるという意味ですから、これは合楽という言葉を使わなければ他に言葉がないと言う事。
 しかも合楽の内容というものが、なら善導されて有難く勿体なくなって、そして心の中に喜びの花が咲いて、それを常に持ち続けるほどしの心を頂いて、もう直ぐそこに見える合楽にと言うのですから、この合楽という言葉を使わなければ、その内容も分からないし、またそのあいよかけよ活動に、示現活動に参画すると言うたってですね、意味をなさないわけね。他にもいろいろ金光教的な、名前が色んなその表現がありますけれども、そうすると非常に弱いものになる。
 私は永井かい四郎先生と、古川で一遍お会いしたときに、それで非難がとても、合楽という言葉を使うと非難がありますし、またわけが分からんなり、だからもっと良い素晴らしい表現はないでしょうかと言うて話たときに、いえそれはやはり、合楽でなからにゃいけませんと、永井先生もやっぱ言っておられます。だからその意味を本当に、やはり理解してもらい分かってもらわなければいかん。もう合楽の言うならコマーシャルのようになってしまうわけですね。
 だから内容をお互いが分からせて貰うて、そして問題は所謂その合楽示現活動に参画させて貰う。もうその事を言い出して途端に、合楽の信者が増えだしましたですね。ご本部参拝なんかは、もうその年から倍になりました。今まではお導きと言う事を言わなかった合楽が、急に合楽示現活動、いうならば示現活動をさしてもらうと言う事になってきた。しかもその示現と言う事は、神仏が不思議な働きを示し現す事だという風に分かってきた。しかも参画すると言う事は、それに参加するというのじゃなくて、預からせて下さいという意味なのだと。
 どうぞ合楽示現活動に私もいうならお願いします、かてて下さい預からせて下さいというのである。私が導くというのじゃない参加するのじゃない、参画すると言う事はそういう意味だと言う事が段々分かってきた。本当にやっぱこの合楽示現活動が出来ると同時に信者が増えだした。丁度それから一年後に御取次ぎ成就信心生活運動の新発足が見られました。それで合楽ではそういう運動の、いうならば先駆者だとも言えるのです。
 御取次ぎ成就信心生活運動にさん、運動と言う事はこらもう素晴らしい、これはスローガンですね。それをほんなら具体的にいうならば、合楽示現活動に参画しなければ、そういういうならば、運動の目的である所の信者を倍にでも、三倍にでも愈々それより以上にでもしていこうと言う事にはならないのです。合楽示現活動に参画すると言う様な内容が中に入らなければね。
 昨日宮崎の網さんから電話がかかってまいりました。ご本部参拝するのにいついつから発ちますから、どうぞよろしくという。そしておかげを頂いて参拝者が先生また増えましたち。百五十八名になったち。だから恐ら、百六十名になりましょうという電話であった。しかし大した事ですね。私共が去年丁度一年前に、一年前だったでしょうあそこの発会はね、宮崎支部の発会はそうだったでしょう。
 だからまあだ一年足らずです今は。それにもう百六十名からの人が、今度の記念祭にはお参りをするといっているのですから。もう本当に不思議な不思議な働きを示し現しをしよりなさると言う事が分かるでしょう神様がね。それにならあちらの中心になる人達が、これだけ熱意を持っておるという事。延岡、高鍋、そして宮崎のいうならば芯になる人達が、やはり本気で打ち込んでおると言う事。そこに神様も本気で打ち込んで、その示現不思議な働きを示し現す。
 どうして宮崎にだけは、素晴らしいおかげを頂くじゃろかと。そういういうならば打ち込み方が違うからですよやはりね。神様は示し現しておられるね。そして愈々最後に合楽理念の確立という事になりましたね。だからどれを後にしてもいけん、先にしてもいけん。もう順序を追うて十年間ですね。合楽の信心が限りなく美しゅうなりましょう、豊かに大きくね。そして和賀心時代を愈々世界に広げていく。
 もう美しゅうなると言う事、広く大きくなると言う事で、内容がもう出来たとして、もう次の信心に進んでおるわけです。だからそれがならただ知っておるだけではね、だからこれはもうみな手遅れですね。そういうものが美しゅうなろう、大きくなると言った様なね、豊かになると言った様な事が、身についていかなければ。そしてそういう和賀心時代を世界に広げていこうと言う様な働きというものがですね。自分の周辺に起こっておらなければならないね。
 そして成程いうならば、今まで言うならお導きと、言った様な事を言わなかった合楽が、もう、言うなら表行全廃そして、心行に専念する事だと。合楽示現活動にどうぞ参画さして下さい。そこには神仏の不思議な、不思議な働きが起こってくる。いうならばあの合楽に、奇跡の毎日だと言われるような日が、それ以来続くようになったでしょう。だからねもう本当に合楽で言い出した事には、いつの場合でも、それに実証があると言う事です、教会自体。ね。
 私は今日はね、信心の道を迷わず失わず伝えて、これが信心だと言うて、おかげも頂かなければ助かりもしない、それを信心だと思い込んで、いかに子供に孫に伝えて所で、結局枯れ果てたようなもので何もならん。おかげの頂けれるお徳の頂けれる。それを私は信心真心の道だとね。それを伝えていかなければつまらない。それにはお互いの信心の、一つの足跡というものを、一遍振り返ってみて、いよいよ信心の道に叶うておるかどうかと言う事です。いうならば信心とはそげな下作かこつ言うちゃならん。
 信心とはね。例えばほんなら、領収書でん書けと言うたならば、そげな事は俺は宗教家だから、そげなものは書かんてんなんてんち言う様な事は、かえって可笑しい。それが助かる事に繋がらなければならない。自分じゃないよ人が助かる事に。こういんさんが言われたとね。お話をしたその言うなら代償としてのお金は要らん。お布施なら貰うと言うたとこう。だからお布施には領収書は書かんとこう言うた。ここのお初穂奉ると書いてある。竹中工務店言うならお布施ですこれはね。
 けどもいや私はそげなこつは思うとりゃせんと言うたら、その五万円返さなきゃならんごつなる。そげなこっじゃこっちも損をし、向こうも損をするね、そこでなら領収書を書きましょうとこう言う。そこに竹中工務店もおかげを頂きゃ、合楽教会もおかげ頂く事になるのです。もうその辺のね考え方がもう、本当に合楽理念を一掃しとるですいつの場合でも。過去の宗教の持ついうならば妙なもんがなくなっていっとるですね。ですねそういうものがです、なら金光教の中にもあったという事ですね。
 今でも金光様の先生で、例えばお供えするけん領収書書けと言うて、ハイとかける先生は、ばさらかおるまいと私は思うですね。だからそういう意味でです、信心がスキット垢抜けしなければ出来る事じゃない。そんなら垢抜けすると言う事はです、ただ言う事が気の利いた事ばっかり言うじゃなくてです、本気でこの十年間に、私共が進めて参りました信心の歩みと言う様なものが、内容になっておらなければならないと言う事なんです。何かこう清廉潔白というですかね。
 お金には無頓着なと言う様なのが、いかにもね、こう良かつのごと思うておる考え方が間違いね。自分の我情我欲のためじゃないね。本当に人が助かる事のためには、やはりね。億万の金でもやはり蓄えがいつもあるくらいなおかげを頂きたいね。その辺の考え方がね、もちっと本当にスッキリしてこなければ、私は真心の信心、真の信心とは言えないと思うですね。いよいよ合楽理念の確立そして、そのまま言うなら十年祭に突入していくわけでございますね。
 昨日ある方が十年祭の記念の、記念祭に対する、前々から思うておった破格の御繰り合わせを頂いたからといって、お供えをなさいました。今日しようか明日しようかと思うておった、ずうっとこう箪笥を、そのまあこう何ちいうかね、その何かお茶屋さんにでも行ってから、包んでもらわにゃんごたる、沢山なお金ですから、やっぱこまか封筒じゃ入らんわけ。それでそれをあのしたとこらがですね。
 箪笥の引き出しに入ってるとも思わなかったのに、その大きな熨斗袋が出てきたちいうわけです。はあ神様がもう受けて下さるしるしと思うて、もうそれこそ有難い一念で、昨日ここでお供えをなさいましたね。合楽の場合にはね、例えばそういう働きはいつもあってるですね。ですからもこちらの真心を、神様がぴしゃっと受けて下さったな、と言った様なものを感ずるから出来るのです。違うでしょうが合楽の場合はね。
 先日からならお庭が出来るときに、五重塔のお供えをしたいと思う。初めは何をお供えしようかと思いよった。庭園が出来るのにどういうふうなおかげを頂いたなら良かろうかと。おかげの泉を開かしゃったげなら、五重塔の御理解が出とったげな。はあこりゃもう五重塔と腹が決まったわけ。それでここでお届があったね。そこでならばそれを私は正樹先生に申しましたら、梅里先生はその事を言われた。ところが合楽の御庭は大きいから、五重塔じゃいかんち言わしゃったげな。
 七重の塔じゃなからにゃいかんち。しかも日本で出来たっじゃいかん、朝鮮の製でなからにゃいかんち。それで正義先生がその、五重塔じゃいかんち言いよりなさる、七重の塔じゃなからにゃいかんち言いよりなさる。ああそうのそんなら私が七重の塔ばお供えせんのち言うわけにゃ二重おおなるから。向こうは五重塔ち言いござるとじゃから。と思うたら、その朝お参りをしてきてから、今朝からお夢を頂いております。それが数字でね、五十プラスの二十ち頂いたげな。イクオール七十ちいうこつ。
 ほう私は今日は私が言うちゃならんと思いよったばってん、あんたが直接お知らせ頂いとるなら、七重の塔が良かばいち私が言いました。五十プラスの二十じゃん。イクオール七十もうそこを頂くときに、もういくら掛ったっちゃ良かち言うごたる気が起こるでしょうが。それだけ神様の間違いない、合楽の神様は抜け目がなかねち言うて、まあ言いましたけれどもね。もう本当に神様が抜け目無しにおかげは下さろうとしておると言う事なんだよね。その話をこの頃神愛会の時にしましたら、宮崎先生がです。
 もうそげな話ば他所のもんにしたっちゃ、ほんなこつちは思わん。もう合楽ばっかり来てみらなきゃ分からんち言うてから、あの言っとられましたね。そういう身近な神様の働きを頂きながらの事でしょうがね。合楽の場合何時もそうなんですね。だからそういういうならば有難い、楽しい働きを受けながら、信心を愈々所謂真心の信心信心の道を。進めていくならば迷いが起こるはずがない。
 しかもそれをほんなら末の末までも教え伝えていくと言う事、生きようではそんならば、下作かごたるふうにいうならば、お初穂に領収書書かんとか、俺は宗教家だからそんな給料のごたるとに、どうしておれが領収書書くかと、こういんさんが言われた模様ですけれどもです。そげなこつ言うたらまあ宗教家の値打ちが落ちるような考え方、またそういう宗教では、もう既に人は助からないと言う事ね。
 ノストラダムスさんが予言しておったという。いうならば地球上にそういう大変な大変化が起こって、人類の破滅だと言う様な事を予言すると言う事は、こう言う事には何百年先になるんだぞと。お前たちの心を今日変えていかなければ駄目だぞと、いうなら言わんばかりのものなのです予言とは。だからここに初めてそこに気が付いた所の合楽でです。なら合楽でも、寒天危地と言った様なね。寒い天の危うい地と又はそれを、歓びの天歓びの地にしていかなければならない。
 それにはもう地球上に死相が出ているようなものだと。人間でももう難しか死相が出ておるようであっても、私の幹三郎のときがそうでした。もう、あの当時神様は死相が出てるとおっしゃっとったね。けれどもお互いの真心一つではです、それが死から生へ甦るようなおかげが頂けるのが信心です。だから地球は大きかけん、そげなわけにはいくめと言う事じゃないと言う事ですね。
 それだけ沢山な人がですね。地球の蘇りを祈る願わせてもらう。私共が改めますからという過去の例えば、宗教信心と言った様なものをかなぐり捨てて、本当の合楽理念に基づいて、お互いが改まる事に研いて行く事に、世のため人のために尽くして頂こうという、いうならば和賀心時代を世界に広げていくためには、合楽示現活動に参画さしてもらわなければならない。ためには愈々合楽理念の確立という事が願われ、急がれなければならんと言う事になるのですね。
 だから皆さんこげな話ば聞いとるだけじゃいかんとです、本当に合楽理念を確立しなければね。そして本当に世界の隅々にまでですね。そのいうならば、末永先生じゃないけれども、南米の果てでね。合楽理念をもってするほかは無い。白人もなからなければ黒人もない。天地人もないそこに愈々助かっておると言う事。しかも霊と共に助かっておると言う事。合楽示現活動、今度同じ日に二十三日に霊祭を仕えておりますがね。百八十名柱の御霊様を、おかげを頂いておるといっておる。
 しかもそれが十日も前から、一生懸命いうならば、あの御霊様との対決の模様を書いてありますね。サンパウロから五十柱、だから二百三十からの御霊様の、いうならばお救いをする儀式が、あちらで出来たという事になりますね。いうならば節霊天命をね。霊徳天命の儀をいうならば、ブラジルの地で出来ると言う事なんですね。言葉も分からんのにね。いうならば人種も違うのに、そういう人達が沢山助かって、その手紙に書いてあります。かってない盛大なお祭りでしたと書いてあるね。
 そういう例えばその合楽理念を持ってするほかに無し。御霊様をお救いする事もね。人間が助かっていくことも、合楽理念を持ってするならば、可能であるという実証者、末永と言う事になるのじゃないでしょうかね。だから銘々がです、なら合楽理念を持ってするほかは無しとね。お商売は合楽理念を持ってするほかはないね。百姓は合楽理念を持ってするほかは無いと、それを言えれる信じれるところまで、合楽理念を自分の物にしていかなければならない。
 そういう信心を私は、今日は信心の道とはそういうものでなからなければ、末の末まで伝えた所でたいした事は無い。そういうおかげの頂けれる道を、末の末までも教え伝えていくと言う事にならなければならんと思うですよね。私は今日はその事を今日のこの、信心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよと言う事は、もし卸小売と言う事でいうならば、今日は卸売りのようなお話でしたですね。も少しこれを目細う何時もこう頂くと、銘々のね信心の上にも、この私の母とか私の婆達が現した信心を、あの信心を真心のしんじんだと申します。
 だからこそこうやって私共に伝わって行くんだという、お話をした事がありますけれども、そういう信心を、ま小売的なというならば、今日のご理解はですね、世界を対象とするね、信心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよと言う様な、一つの大きな幅をですね、一つの確かに卸売り的な表現で信心の道を迷わず失わず末の末までも教え伝えるという御理解に基づいて、卸売り的に聞いて頂いたわけですね。
   どうぞ。